思考の雑記帳

たまになんか書きます。多分。

『ピアニストの脳を科学する』のまとめ(読書ノート)(1)

古屋晋一 (2012) 『ピアニストの脳を科学する:超絶技巧のメカニズム』 (春秋社) のトピックを個人的な備忘録として簡単にまとめた。また個人的に面白そうと思った箇所は太字にした。

とりあえず第1章までで、第2章以降は気が向いたら書くことにする。

 

内容の吟味などはしていない。また簡素な表現にするなどしているので、正確な内容や詳しい内容などは本書および本書に記載されている参考文献を参照されたい。

 

第1章 超絶技巧を可能にする脳

  • 同じ速さで同じ指の動きをしていても、活動している(脳の運動野の)神経細胞の数は、非音楽家よりもピアニストの方が少ない (p.7)
  • 身体の運動をつかさどる特定の神経細胞を刺激したとき、ピアニストでは(ピアノを弾くときにより近い)複雑な動きがおこった (p.10)
  • ピアニストは非音楽家よりも、小脳の細胞が50億個近く多い (p.12)

 

  • 11歳までに行う練習は、12歳以降よりも、脳の白質を発達させやすい、(白質の発達は運動能力や認知機能に影響を及ぼす)(p.17-18)
  • 大人になっても脳の神経細胞は増える (p.19)
  • ヴァイオリニストの右手(弓を動かす方の手)は、プロとアマで、対応する部分の脳活動、脳の体積に差はみられない。一方、左手(弦を押さえる方)では差があり、プロの方がどちらも大きい (p.20-21)

 

  • 5日間、毎日2時間、(A) 実際にピアノを弾いて練習するグループ、(B) 実際にピアノを弾いている指の動きを思い浮かべる(イメトレ)だけをするグループ、(C) 特に何もしないグループ、に分ける。
    5日間後、(B) のイメトレグループに更に2時間、実際にピアノを弾いて練習してもらった。結果、指を動きをつかさどる脳部位の神経細胞の働きについて、(B) は (A) とほぼ同程度まで向上した。(p.22-25)
  • 左右の同じ指を同時に動かす(右手の親指と左手の親指→右手の人差し指と左手の人差し指...)課題と、左右の異なる指を同時に動かす(右手の親指と左手の小指→右手の人差し指と左手の薬指...)課題とで、一般的には異なる指を動かす方が難しいが、ピアニストは脳活動的にどちらも苦としなかった。(p.29-30)
  • 7歳よりも前に専門的な音楽訓練を受け始めたピアニストの方が、非音楽家よりも、脳梁の体積が大きい。
    また、幼少期の練習時間の長さに比例して、脳梁の体積が大きくなる(p.31)。

文学は他者理解の助けとなるか

 「文学フィクションを読むことは心の理論を促進させる 」という記事がScience誌にあった*1。面白そうだったので少し紹介したい。(文学部の学生は就活でのアピールに使えたりして。)

 

要約

 この記事によれば、ノンフィクションを読ませた被験者・ポピュラーフィクション(大衆小説)を読ませた被験者・何も読ませなかった被験者と比較したとき、文学フィクションを読ませた被験者は、心の理論(他人の心理状態を理解する機能)にかんするテスト*2で好成績を収めたという。

 つまり、文学フィクションは、少なくとも一時的には、「相手の心が分かる」機能を向上させる(という仮説を支持する結果が出た)と解釈できる。

 

文学フィクションとは

 ところで、ここで言及されている「文学フィクション」とはなんであろうか。ポピュラーフィクションと何が違うのだろうか。この論文のなかでは、とりあえず受賞歴や専門家の評価によって判断しているようだ(少なくとも、ベストセラーになるようなロマンスものや冒険ものはポピュラーフィクションに分類されるらしい)。

 ただし、文学フィクションの特徴として、たとえば重奏的(ポリフォニック)であるとか、一定のステレオタイプや単一的な価値観によっては汲み取りきれず、読者の予想どおりには簡単にいかないためにより能動的な読みを求められる、といったことを指摘している。

 また、文学フィクションの世界に登場する人物の内面は、現実生活においてと同じように分かりづらく複雑であるが、現実のようにリスクを取ることなく現実のように複雑な他者の心を推し量る機会を提供している、といったような考え方も提示している。

 とはいえ、なぜ文学フィクションが他者理解の機能を一時的とはいえ向上させるのかのメカニズムは明らかになっていないようだ。

 

その他

 この他にも、読書と対人関係の研究はいくつかあるようで、たとえば、読書好きは対人関係が苦手であると捉えられがちだが、そうした考え方はすくなくともフィクションをよく読む人には当てはまらないのではないか、といった結果を報告するものもある*3

 文学は役に立たない、といった主張は実は認知心理学的な側面からも疑う余地があるのかもしれない。

 

参考:『文章理解の認知心理学』(2014、川崎恵理子誠信書房

*1:"Reading Litrary Fiction Improves Theory of Mind" http://science.sciencemag.org/content/342/6156/377.full

*2:Reading the Mind in the Eyes Test (RMET) というテストによって主に評価している。これは、人の眼の部分だけを切り取った画像をみて、その人の感情を答えるというテストである。英語版だが

https://www.questionwritertracker.com/quiz/61/Z4MK3TKB.html

で体験できる。またpdfをzipにしたものではあるが、日本語版は

https://www.autismresearchcentre.com/arc_tests

からダウンロードできる(Eyes Test (Adult) の上から15番目くらい)。英語版を翻訳したものであるから、これを見ながら上記の英語版の問題を解いてみるのもよいかもしれない。

*3:"Bookworms versus nerds: Exposure to fiction versus non-fiction, divergent associations with social ability, and the simulation of fictional social worlds" http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S009265660500053X

分かりやすい資料作成のために、最低限気を付けるべき4つのこと

 藤沢晃治の『「分かりやすい表現」の技術』という本を読んだので、資料作成のために注意すべきだと思ったことを、自分なりに4項目にまとめてみた。なお、ここで書いていることは、本書の意図を伝えようとするものではない。読書メモとアイディアノートがごっちゃになったようなものだと思っていただきたい。

「分かりやすい」とは

 4項目の提示の前に、「分かりやすい」の定義を一応定めておく。「分かる」ということ自体がおそらく難しい問題だと思われるが、ひとつの定式化として、次のような考え方はできるだろう*1

 

「分かりやすい」 = 「情報にたどり着きやすい」

 

 ただし「情報にたどり着きやすい」というのは、読み手が「"必要としている情報がない" という情報にもたどり着きやすい」ということを含んでいる。

 もうひとつ、「分かりやすい」と「分かったつもりになりやすい」は区別することにする。端的な表現やキャッチフレーズなどは「分かったつもりになりやすい」表現だが、実際に受け手が望む情報にたどりつきやすいとは限らない。もちろんこれはこれで大事なのだが、ここでは対象外とする。

 

「情報にたどり着きやすい」資料をつくるためには

 実際に、「受け手」が「分かりやすい」=「情報にたどり着きやすい」資料をつくる上で、気を付けるべきことは何か。『「分かりやすい表現」の技術』の内容を受け4項目にまとめてみた。

  1. 「受け手」の立場に立っているか
  2. 指示されているものが明確か
  3. 構造を見失わせずにいるか
  4. 情報が適切に分割されているか

 

――まあ詳しい内容は『「分かりやすい表現」の技術』を読んでください、ということにして、この本の16のルールをどのように上の4つにまとめたのか、見出しだけ載せておくことにする*2

1. 「受け手」の立場に立っているか
  • ルール1:おもてなしの心を持て
  • ルール2:「受け手」のプロフィールを設定せよ
  • ルール3:「受け手」の熱意を見極めよ
  • ルール4:大前提の説明を忘れるな
  • ルール14:自然発想に逆らうな
2. 指示されているものが明確か
  • ルール6:複数解釈を許すな
  • ルール9:具体的な情報を示せ
3. 構造を見失わせずにいるか
  • ルール5:まず全体地図を与え、その後、適宜、現在地を確認させよ
  • ルール10:情報に優先順位をつけよ
  • ルール12:項目の相互関係を明示せよ
  • ルール13:視覚特性(見やすさ)を重視せよ
  • ルール15:情報の受信順序を明示せよ
4. 情報が適切に分割されているか
  • ルール6:情報のサイズ制限を守れ
  • ルール8:欲張るな。場合によっては詳細を捨てよ
  • ルール11:情報を共通項でくくれ

 

 

*1:『「分かりやすい表現」の技術』には異なる定義(考え方)が紹介されているがここでは割愛。

*2:ただし「ルール16:翻訳は言葉ではなく意味を訳せ」だけはこの中に納まらない項目なので除外してあります。

「駅乃みちか」と「萌え絵」問題はどういう議論だったのか

 最近バズった「駅乃みちか」の「萌え絵」問題。どうやらこの「駅乃みちか」というキャラクターが「エロい」のではないかという指摘というか批判というかがあったようで、Twitterを少し賑わせていた。

参考1:こんなに美人だったの!?東京メトロのサーマネ「駅乃みちか」のビフォーアフターが凄いと話題に - BIGLOBEニュース

この問題について個人的に整理したかったのでこのエントリーを書いた。

 

駅乃みちか」ってなに

駅乃みちか」は2013年から東京メトロの駅ポスターなど使用されているキャラクター(東京メトロサービスマネージャーという設定)で、もともとはいわゆる「萌え絵」とは一線を画した(微妙に地味な)キャラクターだったのだが、今回『つなげて!全国"鉄道むすめ"巡り』というイベントに向けて、いわゆる「萌え絵」化された。

参考2:鉄道むすめ~鉄道制服コレクション~

 

鉄道むすめ」の企画自体は2005年から始まっており、これまでに全国各地でマスコットキャラクターが誕生してきた。

 

“「鉄道むすめ」は、実在する全国各地の鉄道会社の制服を着た美少女キャラクター。鉄道会社のオリジナルキャラクターを改変したものや鉄道会社の特徴を踏まえて同社が創作したものなどさまざまだ”(参考3より)

 

ことの発端

こうしたイベント向けにリニューアルされた「駅乃みちか」の絵を受けてTwitter上で特に指摘されたのが、キャラクターの表情やスカートの描写などが「性的」なのではないかということであった。そして東京メトロ側は「お客様」の声を受け、制作サイドにデザインの修正を求めたそうだ。

参考3:「駅乃みちか」スケスケスカートが大物議 東京メトロ、批判受け微妙に「修正」 - BIGLOBEニュース

 

この問題について意見がある人は多いだろう。実際Twitterではそれなりの反応があった。しかし論点が人により異なり、議論が拗れている印象があった。結局のところ何が問題で、こうした問題にはどうやって議論していくべきなのか。

問題の整理

駅乃みちか」についての論点

まずは大きな論点を整理したい。ひとまず、ことの発端から考えた場合の根本的な議題は次のようになるであろう。

根本議題(仮)今回の「萌え絵」化された(修正前の)「駅乃みちか」のイラストの使用は適切だったのか?また、修正される必要があったのか?

ただし、この定式化はやや微妙な点がある。これは、次のような事実から明らかになる。

前提(事実)
  1. 駅乃みちか」は公共交通機関である東京メトロのキャラクターで、2013年から実際に使用されている。
  2. 「萌え絵」版「駅乃みちか」のイラスト制作はトミーテックであり、公共機関ではない。
  3. 「萌え絵」版「駅乃みちか」は実際に駅などで使用されているわけではなく、いまのところ「鉄道むすめ」というトミーテックの企画の中でのみ使用されている。
  4. 鉄道むすめ」の企画(スタンプラリー)によって東京メトロ駅構内にイラストなどが設置されることが予想される(ただしどの駅のどこに、どういったかたちで設置されるのかは不明)。
  5. 鉄道むすめ」による「萌え絵」キャラが、鉄道会社と積極的にコラボをしているケースは既に(それなりに)あり、ラッピング電車などの企画もあった。

(参考2などを参照)

この事実から分かるように、東京メトロは「萌え絵」版「駅乃みちか」をどこかに使用しているわけではない。その一方で、鉄道むすめ」の「萌え絵」キャラと鉄道事業とのタイアップがこれまでに多くなされてきたという事実もあり、今回の「駅乃みちか」もそうした企画に使用される可能性はある(ただし現状は4.の予定しかない)。

そうすると、先の根本議題の定式化が微妙であったことが分かる。つまり、駅乃みちか」はまだ使用されていない。したがって先の根本議題(仮)は次のように修正されるべきである。

根本議題今回の「駅乃みちか」の「萌え絵」化は適切だったのか?

 つまりまだ(駅などでは)使用されていないイラストについて、使用の是非を問うべきではないということだ。

また、イラスト修正の是非という点は、どちらかといえば表現規制に関わる話なので、むしろ次の派生議題=中心議題における論点とみなした方が議論は整理されるであろう。

派生議題=中心議題公共機関は、もし今回の「駅乃みちか」のようなイラストが(公共機関関連において使用される)キャラクターの案として提出されたなら、それを採用すべきか?

これは根本議題よりもややズレた議題である。しかし実際にTwitterでバズった内容はこの議題に集約されるように思われる。つまり派生議題ではあるが同時に中心議題でもあった。この派生議題が重要である理由は、すでに前提5.のような事実があり、実際の積極的なタイアップ企画で修正前の「駅乃みちか」のようなデザインが採用される可能性は十分にあったからだ。この議題は仮定の話ではあるが、今回に限って言えば実際に公共交通機関が主体とはなっていないものの、これからそうした事態が起こらないとは思えない。また、Twitter上の少なくない人はこの議題を問題にしているように思われた*1

 

ちなみに、以下のようなことに言及している人もいたが、結局のところ上の中心議題を論じていく途中で現れてくる論点であると考えられる。

・たとえ企業の広告・キャラクターであったとしても、公共交通機関の駅構内などに「萌え絵」を掲載すべきでないのでは?

・今回の批判はオタク差別ではないのか?

・現在すでコラボしている他の「萌え絵」キャラはどう扱われるべきなのか?

・実写の女性はどうなのか?

 

また、根本議題を問題にしている人にとっては、中心議題を問題にする人たちは、火のないところに煙を起こしている(?)ような印象を受けたかもしれない。しかし、次のような懸念を考えれば、中心議題を考えることにはそれなりの理由があるといってよいだろう。

  • 駅乃みちか」は既に東京メトロの公式キャラクターであり、その「萌え絵」化を(たとえメトロ側が使用しないにしても)認めるというのはいかがなものか。
  • 実際に広く使用されないにしても、前提4.のような使用はあるであろうため、公共機関としてのイラストとの接点は存在するのではないか(つまり適切なゾーニング [棲み分け] が出来ていないのではないか)。
派生議題=中心議題と議論の前提

上で提示された派生議題=中心議題は、ひとことで言ってしまえば、公共機関が「萌え絵」を使うのってどうなの、ということになろうが、「萌え絵」が単に「萌え絵」というだけで問題になるのであれば、「オタク差別」ということにもなってしまいかねない。「萌え絵」がなぜ問題なのかといえば、「萌え絵」が「何かしらの不快感」を招きやすい(あるいはそうみなされやすい)からだ、もしくは萌え絵のもつ「文脈」は公共の場にはふさわしくないからだ、ということになるだろう。(「何かしらの不快感」の代表例はとうぜん「性的な不快感(性嫌悪)」となるだろう)

そういえば、ことの発端は「駅乃みちか」のイラストはエロいのでは?という指摘であった。これに関しては以下のような考察もあった。

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(転職を試みるかえる @orz404による。引用元:https://twitter.com/orz404/status/787882634026160128

 

だが、「駅乃みちか」のイラストがエロいかどうかは判断が分かれるところである。こんなツイートもあった

 参考4:https://ja-jp.facebook.com/K.R.T.GIRLS/

 

また、「萌え絵」化する以前の原キャラクターにエロさを感じるというツイートもあった。

 

結局のところ、次のことを議論の前提として受け入れるべきではないだろうか。

議論の前提どんな表現が性的なのかについては個人の感じ方の違いがある。それゆえ性的な表現について絶対的な線引き・理論化はできない。

 問題は、こうした議論の前提を認めたうえで、どのようなルール作りをしていくのか、ということであろう。

 

Twitterでの意見

あとはTwitterでみられた意見をほんの少し見ていくことにする。

 

しかし自由というのはどこまで容認されるのか。駅前にフルヌードを置いてもいいということになるのか。もちろん「ある程度」不愉快な表現については受け止めよ、ということなので、こうした反論の仕方は妥当ではないかもしれないが、結局のところ、どこで線引きをするのか、という問題になってくる。

 

「萌え絵」が、とりわけ規制されるべき表現なのだろうか。「歪んだ」性的欲望の発露を感じる実写はないのだろうか(あるいは実写に「歪んだ」性的欲望の発露を感じるようなひとがいたとして、同様の主張をしたとき、どうなるのか)。

もちろんゾーニング [棲み分け] は有効な妥協案のひとつではあろう。

 

こちら(日本)がダメというならあちら(台湾)はどうなのか、という議論には「あちらはよいがこちらはダメだ」「どちらも本当はダメだ」「どちらもよい」の3パターンの応答がふつう考えられるが、もし「あちらはよいがこちらはダメだ」とするのであれば、それなりの論拠(どういった点で違うのか、なぜ違う扱いをすべきなのか)を示さなければならないだろう。この場合は国の違いだが、「萌え絵」と「実写」にしても同じことだ。

 

そうすると、「一般人」はつねに表現者の一方的な突きつけに従うことになってしまいかねないのではないか。それで本当にいいのだろうか。

 

*1:ところでTwitterでは根本議題を問題にしている人と、そこからイラスト修正の是非や表現規制に関わる論点をすくって派生議題=中心議題を問題にしている人が見事にかみ合っていなかった。すぐ下で挙げたテーマについても同様のことが言える。

仕事・教育・自己表現

 

gendai.ismedia.jp

 

     今後、ビッグデータの活用やら人工知能やらによって、人間に求められる仕事というのは淘汰されていく、もしくは変容していくであろう。そうしたなかでは、「そもそも人間が働くとはどういうことか」ということが問題になってくるのではないだろうか。そしてこの問いは、生き方のレベルで考えなければならないだろう。

 
     よく、人は一人では生きられないと言ったりする。そうだとすれば、人とどう関わっていくか、ということは問題になるわけだが、他人のことは表面のことしかわからない。どんなに頑張っても他人になりきることはできない。他人の気持ちが分かったという経験は、「共感」という名の錯覚にすぎない。といってもこの錯覚は無意味ではない。これこそがコミュニケーションであり、分かり合えなさでもある。さあ、他人はあなたの表面しか、直接的には受取ることができないのだ。あなたが表現しなければ「共感」は生じ得ない。ただし表現といっても、必ずしも言葉を言ったり絵を描いたりしなくてもよい。ただ目の前にいるだけでも、ただ触れ合うだけでもそれは表現となりうる。
 
     しかし現実的には、表現の手段は多いにこしたことはない。そして、何でもいい、これこそが自分の本質を表現しうる手段である、というものが見つけられれば、それは素晴らしいことではないか。言葉、絵、芝居、音楽、写真、プログラミング。こうしたものはすべて自己表現の手段となりうる。生き方について、自己表現の手段という側面から考えるということも必要ではないだろうか。
 
     そして、いくつになっても自己表現を模索することに遅いということはないが、しかし、早い方が、手段そのものについて模索するコストは減る。どう頑張っても、大人になれば本当の意味でバイリンガルになることは難しくなってくる。音楽などにしてもそうだ。手段はあくまでも手段である。それなりに早い時期に自己表現の選択肢を増やせるようにすべきではないだろうか。そしてそれこそが教育と呼ばれるものが担うべきことのひとつではないだろうか。
 
 

カテゴリー錯誤 (category mistake)

     「カテゴリー錯誤」 (category mistake) というのはギルバート・ライルという哲学者が『心の概念』で提起したものである。哲学的な面でも重要だが、ロジカルシンキングという面においても重要な考え方であろう。
     定義的なことを言えば、あるカテゴリーに属しているものが異なるカテゴリーに属しているかのように用いられるというタイプの(意味論的・存在論的な)誤りである…といってもピンと来ないので具体例を見てみよう。
具体例
     例えば、ある外国の知人が東京大学を初めて訪れ、東大の人と一緒に様々な校舎や図書館、博物館、事務棟などを見てまわったとする。そうしてその知人が「それで、大学はどこにあるんですか」と尋ねたとしら、「何言ってんねんコイツ」とツッコミたくなるだろう。この場合、この人は「大学」というものを「校舎」「図書館」「博物館」「事務棟」と同列に考えている、すなわち同じカテゴリー入れて考えている。しかしこれは明らかに誤っているように感じられる。つまり、「校舎」「図書館」「博物館」「事務棟」というのは「物理的に眼に見える建造物」といったようなカテゴリーに属するものであるが、「大学」というのはむしろそうした建物を含むようなものであって、決して何らかの建物それ自体を指すわけではない。こうした点でこの知人は「カテゴリー錯誤」を犯しているのである。
 
     もう一つ簡単な例を考えてみよう。日本語、英語、ドイツ語といったのは言語の例であるが、もし「私は日本語と英語とドイツ語と言語がしゃべれます」と言われたら違和感を覚えないだろうか。これも日本語や英語を言語と同列に並べている「カテゴリー錯誤」を犯しているように受け止められるからである。
 
     この考え方は、必ずしも階層的な発想ではなくとも適用できる。「私のパソコンは信仰心があつい」というのは、比喩的に捉えない限りカテゴリー錯誤といえよう。というのは、ふつうパソコンというのは宗教心や信仰心をもつものではないと考えられ、にもかかわらずこの発言者はパソコンを、信仰心を持つようなものとして捉えているからだ。つまり、「信仰心をもつ」という考え方が本来適用可能なカテゴリー(一般には人間だけが属するだろう)と、適用できないカテゴリーの区別がついていない、という印象を与えるのである。

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哲学的な話
     少しだけ哲学的な意義を考えてみよう。次のようなことを主張する人がいたとする。「1本の神経というのは言葉の意味を理解しているようには思えない。一方、人間の脳はいわば神経の束である。1本の神経は言葉の意味を理解できないし、それがいくら集まっても、イチゼロの束で制御されているコンピューターが人間の言葉の意味を理解できないように、やっぱり理解できない。つまり人間の脳も言葉の意味を理解してなんかいない。だから人間も実は言葉を理解してなんかいない」。確かに神経自体は「意味理解」をすることはできないというのはもっともらしい。しかしだからといって人間が「意味理解」をできないと言ってしまうのはおかしいように思われる。
     さて、この人はある種のカテゴリー錯誤をしているといえないだろうか。「意味理解」というのは、神経などに対して適用できるような概念ではない。つまり、「意味理解ができるもの」のカテゴリーに神経というものは含まれていない。なので「神経が意味理解できない」のは当然であり、そのことを理由に「人間は意味理解ができない」というのは不適切である。確かに脳神経は認知システムの一端を担う部品であるが、「意味理解」が認知システム全体に適用できるからといって部品にも同様に適用できるとは限らない。先の例でいえば、「私は信仰心がある」と言えても、「私の膵臓は信仰心がある」と言えばこれはカテゴリー錯誤である。
     ちなみに「脳が言葉の意味を理解できるかどうか」は微妙な問題である。「言葉の意味を理解できるような認知システム」というものを脳のレベルで可能なものとするか、もう少し大きな、身体を伴うようなもののレベルで考えるのか(、あるいはさらに大きな、例えば複数の人間のレベルで考えるのか)、これも面白い問題であろう。
 
参考

『哲学入門』 (ちくま新書), 戸田山和久, 2014

Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

心の哲学まとめWiki - カテゴリー錯誤

Category mistake - Wikipedia, the free encyclopedia

 
 

「良い子ちゃん効果」

      こんな記事があった。

www.foocom.net

      この中で「良い子ちゃん効果」という言葉が使われているので紹介したい。安易な“実験結果”に騙されないためには大事な発想である。

「良い子ちゃん効果」

     あるグループに対し「1日の食事の中で1回は「牛丼の具」を加える」という実験を行ったとする。このとき被験者は「(食事に関する)実験に参加している」ということを意識してしまい、つい普段よりもバランスの良い食事にしてしまうかもしれない。つまり、ついつい「良い子ちゃん」なってしまう。このことを「良い子ちゃん効果」という。もしこうなれば「牛丼の具」が実際にどの程度、被験者に影響を及ぼしたのかが分からなくなってしまう(食事のバランスが少し良くなったことの影響が混ざってしまう)。
     これは一般には「観察者効果」と呼ばれる。「良い子ちゃん効果」というのは、検索してもヒットしないので冒頭の記事を書いた松永氏の造語だろう。しかしとても良いネーミングセンスだと思う。
     ちなみに「良い子ちゃん効果」を考慮するならば、「牛丼の具」を食べる前後も調査して比較する、あるいは「牛丼の具」を食べない対照群を用意して比較するなどの対照実験が必要となるだろう。

「観察者バイアス」

     ところで、観察される側に「良い子ちゃん効果」の可能性があるように、観察する側にもついつい「ひいき」が出てしまう可能性がある。例えばある精神薬の効果について「偽薬を与えたグループ」と「実験薬を与えたグループ」とで比較するとする(もちろん被験者自身は偽薬かどうかは知らない)。そして実験者はどちらに実験薬を与えたか知っているとする。このとき、問診などで被験者が同じような受け答えをしたとしても、「この人は本物の薬を飲んだ方だし効果がみられるな」「この人は偽薬を使っているしおそらく一時的な変化の範囲(誤差)かな」という判断が無意識のうちになされるかもしれない。
     実際、医薬品の実験などでは被験者も観察者も実験薬を与えたグループがどちらか、実験が終了するまで分らないようにしている(これを「二重盲検法」という)。
 
 
     観察者バイアスの方はともかく、「良い子ちゃん効果」の方は、実験の測定プロセスそのものが仮に信頼できたとしても、実際に着目するモノの影響・効果については適切な解釈が得られないということがある。巷にあふれる「実験」に騙されないためにも重要な発想であろう。