思考の雑記帳

たまになんか書きます。多分。

仕事・教育・自己表現

 

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     今後、ビッグデータの活用やら人工知能やらによって、人間に求められる仕事というのは淘汰されていく、もしくは変容していくであろう。そうしたなかでは、「そもそも人間が働くとはどういうことか」ということが問題になってくるのではないだろうか。そしてこの問いは、生き方のレベルで考えなければならないだろう。

 
     よく、人は一人では生きられないと言ったりする。そうだとすれば、人とどう関わっていくか、ということは問題になるわけだが、他人のことは表面のことしかわからない。どんなに頑張っても他人になりきることはできない。他人の気持ちが分かったという経験は、「共感」という名の錯覚にすぎない。といってもこの錯覚は無意味ではない。これこそがコミュニケーションであり、分かり合えなさでもある。さあ、他人はあなたの表面しか、直接的には受取ることができないのだ。あなたが表現しなければ「共感」は生じ得ない。ただし表現といっても、必ずしも言葉を言ったり絵を描いたりしなくてもよい。ただ目の前にいるだけでも、ただ触れ合うだけでもそれは表現となりうる。
 
     しかし現実的には、表現の手段は多いにこしたことはない。そして、何でもいい、これこそが自分の本質を表現しうる手段である、というものが見つけられれば、それは素晴らしいことではないか。言葉、絵、芝居、音楽、写真、プログラミング。こうしたものはすべて自己表現の手段となりうる。生き方について、自己表現の手段という側面から考えるということも必要ではないだろうか。
 
     そして、いくつになっても自己表現を模索することに遅いということはないが、しかし、早い方が、手段そのものについて模索するコストは減る。どう頑張っても、大人になれば本当の意味でバイリンガルになることは難しくなってくる。音楽などにしてもそうだ。手段はあくまでも手段である。それなりに早い時期に自己表現の選択肢を増やせるようにすべきではないだろうか。そしてそれこそが教育と呼ばれるものが担うべきことのひとつではないだろうか。