思考の雑記帳

たまになんか書きます。多分。

カテゴリー錯誤 (category mistake)

     「カテゴリー錯誤」 (category mistake) というのはギルバート・ライルという哲学者が『心の概念』で提起したものである。哲学的な面でも重要だが、ロジカルシンキングという面においても重要な考え方であろう。
     定義的なことを言えば、あるカテゴリーに属しているものが異なるカテゴリーに属しているかのように用いられるというタイプの(意味論的・存在論的な)誤りである…といってもピンと来ないので具体例を見てみよう。
具体例
     例えば、ある外国の知人が東京大学を初めて訪れ、東大の人と一緒に様々な校舎や図書館、博物館、事務棟などを見てまわったとする。そうしてその知人が「それで、大学はどこにあるんですか」と尋ねたとしら、「何言ってんねんコイツ」とツッコミたくなるだろう。この場合、この人は「大学」というものを「校舎」「図書館」「博物館」「事務棟」と同列に考えている、すなわち同じカテゴリー入れて考えている。しかしこれは明らかに誤っているように感じられる。つまり、「校舎」「図書館」「博物館」「事務棟」というのは「物理的に眼に見える建造物」といったようなカテゴリーに属するものであるが、「大学」というのはむしろそうした建物を含むようなものであって、決して何らかの建物それ自体を指すわけではない。こうした点でこの知人は「カテゴリー錯誤」を犯しているのである。
 
     もう一つ簡単な例を考えてみよう。日本語、英語、ドイツ語といったのは言語の例であるが、もし「私は日本語と英語とドイツ語と言語がしゃべれます」と言われたら違和感を覚えないだろうか。これも日本語や英語を言語と同列に並べている「カテゴリー錯誤」を犯しているように受け止められるからである。
 
     この考え方は、必ずしも階層的な発想ではなくとも適用できる。「私のパソコンは信仰心があつい」というのは、比喩的に捉えない限りカテゴリー錯誤といえよう。というのは、ふつうパソコンというのは宗教心や信仰心をもつものではないと考えられ、にもかかわらずこの発言者はパソコンを、信仰心を持つようなものとして捉えているからだ。つまり、「信仰心をもつ」という考え方が本来適用可能なカテゴリー(一般には人間だけが属するだろう)と、適用できないカテゴリーの区別がついていない、という印象を与えるのである。

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哲学的な話
     少しだけ哲学的な意義を考えてみよう。次のようなことを主張する人がいたとする。「1本の神経というのは言葉の意味を理解しているようには思えない。一方、人間の脳はいわば神経の束である。1本の神経は言葉の意味を理解できないし、それがいくら集まっても、イチゼロの束で制御されているコンピューターが人間の言葉の意味を理解できないように、やっぱり理解できない。つまり人間の脳も言葉の意味を理解してなんかいない。だから人間も実は言葉を理解してなんかいない」。確かに神経自体は「意味理解」をすることはできないというのはもっともらしい。しかしだからといって人間が「意味理解」をできないと言ってしまうのはおかしいように思われる。
     さて、この人はある種のカテゴリー錯誤をしているといえないだろうか。「意味理解」というのは、神経などに対して適用できるような概念ではない。つまり、「意味理解ができるもの」のカテゴリーに神経というものは含まれていない。なので「神経が意味理解できない」のは当然であり、そのことを理由に「人間は意味理解ができない」というのは不適切である。確かに脳神経は認知システムの一端を担う部品であるが、「意味理解」が認知システム全体に適用できるからといって部品にも同様に適用できるとは限らない。先の例でいえば、「私は信仰心がある」と言えても、「私の膵臓は信仰心がある」と言えばこれはカテゴリー錯誤である。
     ちなみに「脳が言葉の意味を理解できるかどうか」は微妙な問題である。「言葉の意味を理解できるような認知システム」というものを脳のレベルで可能なものとするか、もう少し大きな、身体を伴うようなもののレベルで考えるのか(、あるいはさらに大きな、例えば複数の人間のレベルで考えるのか)、これも面白い問題であろう。
 
参考

『哲学入門』 (ちくま新書), 戸田山和久, 2014

Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

心の哲学まとめWiki - カテゴリー錯誤

Category mistake - Wikipedia, the free encyclopedia